てんてこママ日記

アラフォーのワーママ。美大出身でデザインの仕事をしています。主に不妊治療、出産、子育てについて、時々仕事や趣味についても書いていきたいと思います。Twitter→ @tentekomama000

3.11の備忘録

今日は3.11。あの日から14年も経ったんだと驚きます。

2011年の3月11日の時は、埼玉県の実家に住んでいて、東京の会社に通っていました。忘れないように備忘録を書いておこうと思います。当時20代だった女性の備忘録です。

地震発生時

地震発生時は会社でパソコン作業をしていました。会社は東京都港区にありましたが、かなり揺れました。確か震度5くらいだったと思います。

デザイナーの仕事をしていたので、大きなモニターを使っていましたが、揺れで机から落ちそうになるのを必死で抑えたのを覚えています。会社にある本棚の本はかなり落ちました。

そんな感じで2回くらい大きな揺れがありました。私の会社はビルの2階にあるのですが、窓の外を見るとなんと会社の社長が外へ避難してました。社員を置いて、、、なんだか悲しくなった瞬間でした。社員を1番に考えてない会社なんだなと胸に刻みました。

3月11日に起きたこと

地震後、まず電話が繋がらなくなりました。メールもしばらく繋がらず。この時は私はまだSNSをしていなかったので、メールで連絡が取れるまで、家族や友達と音信不通でした。この時ツイッターなどは繋がっていたということで、震災後にSNSを始めました。

この頃、私はマス広告の仕事をバリバリしていました。3月11日も広告代理店に〆切を急かされていましたが、結局この日は誰も入稿データを取りに来ませんでした。車が渋滞で動かないとか、高層ビルのエレベーターが止まってしまって降りられないとかの理由でした。そういえば、この頃はまだオンラインで入稿はできなくて、広告代理店の派遣社員の人が直接データを取りに来て、アナログでしたね。

会社にテレビ会議用にテレビがあり、そこで東北が震源地とか、津波が大変だとかの情報を知りました。なんだか現実とは思えませんでした。

この日は早く帰宅していいことになったのですが、肝心の電車が止まってしまいました。会社の窓から外を見ると、道路は歩いて帰る人で大混雑。中には自転車を買って乗って帰った人もいるようでした。

私鉄やJRは夕方〜夜には動いたと思いますが、東京メトロは全く動かず。私は埼玉から東京メトロで通っていたのですが、早々とこの日は家に帰るのを諦めました。歩くと4〜5時間掛かり、一人で夜道を歩く自信がなかったからです。3月の夜は結構寒いですし。他にも何人か帰れない人がいたので会社にいた方が安心でした。

その夜は会社から支給されたおにぎりやカップラーメンを食べたり、残った仕事をして過ごし、最後は椅子を並べて少し寝ました。(あまり眠れなかった記憶)

翌朝は早朝から東京メトロも無事に運転再開し、朝6時ごろの電車で帰りました。朝まで待ったのは正解だったと思いました。

3月11日以降

3月11日以降にも原子力発電所の問題などがあり、不安な毎日が続きました。

まず、原子力発電所で爆発にようなものが起きた次の日、大手広告代理店はなぜかみんな休みになりました。これはきっと何か重大な情報を掴んでいるからなんだろうな〜と薄々感じました。ちなみに私の会社は普通に出社でした。

その後、電力が足りなくなり、関東で計画停電が予定されていることをニュースで知りました。でもどこの地域で何時に停電になるか不明という事態。東京都だけは停電区域に入っていなくて、不公平を感じました。

私は埼玉に住んでいたので、停電に備えてランタンを用意しましたが、結局停電にはなりませんでした。噂では入院患者がいる病院が近くにあったからとか。友達で自宅が停電になった子がいましたが、信号なども消えて怖かったらしいです。

電力不足は電車にも影響があって、一部運休になったり間引き運転になったりし、半年くらい通勤経路を変更したりしました。あとは地下鉄のエスカレーターがしばらく止まってしまい、自力で登るのは結構辛かったです。今なら在宅勤務になりそうですが、当時は絶対出社でした。大江戸線とかはすごく深いですが、当時どんな状況だったか気になります。

また、私はマンションの5階に住んでいましたが、1週間くらいエレベーターが止まりました。5階だったので階段でも許容範囲でしたが、10階とかだとキツそうだと思いました。この時の教訓で、いまだに5階以上には住んでいません。

しばらくは街や電車など、灯りが消えて暗かったのを覚えています。

千葉の浦安に住んでいた友人は液状化でしばらく苦労していて、埋立地エリアには住みたくないなと思いました。今、湾岸エリアのマンションが高騰してますが、地震は大丈夫なんだろうか?

仕事への影響

地震の日が、ちょうど大きな広告キャンペーンの入稿ラッシュの時で、前日は会社に泊まって仕事をしていました。

しかし、震災の影響でマス広告は軒並み中止。震災後、CMはACばっかりになったのを覚えてますでしょうか?私が関わっていたキャンペーンもかなり縮小になりました。広告やってる場合じゃないけど、、かなり残業して完成した仕事だったので、少し寂しかったです。

当時思ったこと

地震が起きた日、家庭を持っている人は真っ先に帰宅して行くのを見て、当時は彼氏がいなかったので、安否を心配する人がいないのは寂しいなと感じたのを覚えています。もちろん家族や友達など連絡したい人はいましたが、それとは別で。実際、震災後に結婚した友達などもいました。

震災の前では仕事とか会社とかはどうでもよくなるんだな、というのも改めて感じました。当時の私は仕事ばかりの生活だったので、ハッとしました。みんな必死で結局は誰も助けてくれないので、家族だけが頼りなんだと思いましたね。

震度5で、ここまで大変なことになるんだというのにも驚きました。津波原子力発電所の影響はすごかったですね。

最後に

また来るかもしれない地震

あれから防災意識も少し出て、懐中電灯を用意したり、食料や水を備蓄するようになったのは少し進歩でしょうか?

今は家族がいて、子どもがいるので、とても怖いです!家も買っちゃったし。でも、何が来ても最善を尽くすだけです。改めて3.11を思い出し、備えたいと思います。